なぜツキノワグマは人を襲うようになったのか?自然の変化を鋭く見つめ続けてきた動物カメラマン宮崎学が送る新メッセージ
2008/6/4 水曜日   ツキノワグマ日記

マツクイムシとツキノワグマの生息地

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「山をみて木を見ず、木をみて山を見ず」という言葉があるが、ほんとうにそういう人が現代の日本社会に増えていると思う。
国土の7割が山野といわれている日本で、列島全体を俯瞰してみれば、たしかにどこにでも山野山林がひろがっている。そんな山野を目の前にすれば、そこにどのような樹種が生えていて、樹齢はどのくらいになっているのか。そして、山野全体がどのような歴史と時間がかかっているのか。それらの山野が周囲とどのような関連でなりたっているのか。そうした山野に、たくさんの野生動物が生息していて、彼らは日々どのような生活をしているのか。
ボクは、絶えずこのように関連づけて、目の前に迫ってくる自然界を見てしまう。

たとえば、広島から近畿地方まで中国自動車道をひた走ってみる。
ここで目につく山野は、見事なドングリをはじめとする広葉樹の林ばかりだ。樹齢が30~40年たっていて、いまもっともさかんにドングリ生産も行われている山野にみえる。

これらの広葉樹のある山野は、30年前にはたくさんのアカマツがあった。
そのアカマツ林が、マツクイムシによって全滅をして、現在の姿になっている。
この30年間に、中国・近畿地方の山野は劇的に変化を遂げている、のである。

このようにアカマツから、ドングリ林を主体とする広葉樹に変化したことは、その山中では動物相も劇的に変化をつづけていることであろう。
写真家としてボクは、こうした環境変化にはいつも敏感になって注目したい。
だから、現地に暮らしていれば、「松枯れ」現象時代から今日の姿に移行するまでのプロセスに興味をもち、独自の視点で現在のドングリ林を見つめてみるであろう。
自然界とはそのくらい、日本中のどこでも日々変化をつづけているものであり、全国どこにいてもこうした視点で足下の自然を見て語ることは誰にでもできることだからである。
いや、それを各地でしなければならないのである。
それなのに、中央で発信されることだけが正しいと思い信じ込んでしまって、それぞれの地域の目の前にある自然を独自な視点で検証しようともしない。
日本の自然は一つではないのだから、それぞれの地方独自の見方をしなければならない、のにである。

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Webなどをみていれば、現在では動物調査用に市販されている「自動撮影装置」もあるようだ。誰が使ってもそれなりに成果がでる、ようである。
それなのに、まったく結果が見えてこないということは、こんなにも簡単な装置すらも使い切れていないということであろう。身銭も切らない、独自の視点もない、撮影技術も観察技術も磨こうともしない、このような後ろ向きの人にはツキノワグマの行動なんて読めるものではない。
だから、自動撮影カメラをいくら仕掛けても、成果はあがらないものである。
30年間かかって、アカマツ林からドングリ林に大変化を遂げていることにも気がつかないようでは、ひっそりと潜行していくツキノワグマの「けもの道」だって見つけられないであろう。
それなのに西日本の山野からはツキノワグマが滅んでいくような表現ばかりが一人歩きをしていると、これはハッキリいって技術不足なのだと思ってしまう。
地域の自然をほんとうに見つめるには、それぞれの地域でスキル不足を高める努力をしてもらわなければ、ツキノワグマだってほんとうのところは困るからである。

写真上:松枯れのあとの落葉広葉樹のひろがりは、冬期間に山林野環境を遠望すれば一目で分かる。岡山神郷パーキング付近に広がるこの山野だって充分に調査対象になろう。
写真下:クルミの木にツキノワグマが登り、カマドウマがそっと幹下へ隠れる。こんな小さなドラマが日本中の山野では絶えず繰り返されていることだろう。

(from/ gaku )

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