『ツキノワグマは猛獣だ』その5 猟師と犬がいなくなり…
4時間におよぶ緊急手術のあと、まる一昼夜を昏睡状態ですごしたNKさんがベットで目を覚ましてみたものは、自分を取り囲む身内の人たちの顔々だった。
『はれー、私はどれだけ寝てた、のぅ?』
そんな言葉が自らの口をついてでたのだったが、親戚などが心配して交替で病室を見守っていたからだ。
意識が戻ってまもなく、警察官が事情聴取に訪れた。
事件のことを説明しはじめてまもなく、NKさんはその警察官に向かって大量の吐血をしてしまった。
クマに歯を1本抜かれていたし、唇にもツメが刺さったので、口内に出た血液をたくさん飲み込んでいたからだ。それが、血液と胃液とが混ざり合って胃内部に溜まったまま昏睡状態をつづけていたので、意識が戻って一気に飛び出したかたちとなった。まさに汚物に近い状態の吐血を警察官は頭から全身に浴び、病室は悲惨な状態になってしまった。
それほど、大量だったし、関係者も驚くべき惨状だった。
これを受けて、再び面会謝絶が5日間つづいた。
ツキノワグマによる傷があまりにも大きかったために、医師団は破傷風などの危険性も考慮して2週間が勝負だと緊張していた。
1週間を無事に病院で過ごせれば第一関門突破と、NKさん自身も密かに念じていた。
そして、なんとしても生きて自宅に帰りたいと切なる気持ちで2回目の手術も受けたのだった。
結果的に29日間入院して11月28日に、無事NKさんは退院できた。
入院費は、30万円余の個人負担。
医師団も、こんなに早く快復するとは思ってはいなかったそうだ。
そのNKさんは、
『私はこの歳になるまで入れ歯は1本もないんだ、に。
だからクマに歯を1本抜かれてしまったけれど、力いっぱいクマの指を噛むことができたん、な。これが入れ歯じゃあ、そういうワケにはいかなんだと思う。
いまでは、虫歯のない歯に産んでくれた親に感謝しているんなぁ。』
退院3日後にボクはNKさんを自宅に見舞ったが、このように話してくれたNKさんは、無事自宅へ帰ってこられたことをほんとうによろこんでいた。
NKさんを襲ったクマは、ゴールデンリトルバーくらいの大きさだったと証言していた。
あまり大きなクマではなさそうだったが、これほどまでにダメージを与えるのだからツキノワグマの破壊力はすざまじいものがある。
この翌日には、1kmほど離れた集落で90kgのツキノワグマが捕殺されたが、大きさからしてどうも別個体と思われる。
浦の地形は、まさに南アルプスの山腹に囲まれた小さな集落。
平家伝説が残るだけに、このたたずまいを見てしまえばそれも充分にうなずける。
昭和36年(集中豪雨水害でダメージをうける)までは、この集落には80軒あまりの家があったそうだ。
それが、現在では9軒のみ。
それも、古くから住んでいた家が6軒で、あとの3軒は古家を買って都会から移り住んできた人たちだ。
平均年齢が70歳を超え、中学生や小学生のいる家庭は一軒もなくお年寄りばかりだ。
集落には、立派な家が40軒ほどまだ見られるが、空家だったり別荘がわりに買い取られているものが多い。
周囲を山に囲まれたこのような浦の集落だから、昔は猟師もたくさんいた。
それが、7−8年前から猟師はいなくなった。
それまでは、ツキノワグマが集落に来たことは一度もなかった。
こんな集落だから、日本犬を何頭か放し飼いにしておけば、クマやイノシシなどの野生動物の侵入を防げるとボクは思った。
だから、そのことをNKさんに進言したら、
『それが、ウチでも2頭の犬を飼っており、年寄りのほうの犬を放していたんだに。
そうしたら、別荘にきている人たちが犬の放し飼いは「法律違反」だって言うん、な。
あの人たちは、一年に3日くらいしか「空き家」に来ないヒトたちで、好いたことばかりを言って、また都会へ帰っていってしまうんだ、に。
都会の人たちは自然保護だとかいろいろいっているヒトがたくさんいるけれど、そのなかの一人でも私のような目に遭ってみればいい。そうすればツキノワグマの恐ろしさに気づくと思う、よ。
それに、「お仕置き」とか「学習放獣」なんとかいって、いちど捕まえたクマをなんで山に放してしまうんなぁー?
頼むで、あんなことはやめてもらいたい、に。
このようなひどい事故は、私ひとりだけで充分だで…。』
■庭につながれていた犬が、朝7時半くらいから激しく吠え立てていた。
■その犬の声の意味を飼い主である家人が理解できなかった。
■自宅の裏庭にニホンミツバチを6箱飼育していた。
■ミツバチにクマが誘引されるという複眼発想ができなかった。
■つい半世紀前までは、集落全体が犬の放し飼いで守られていたことを旧住民は知っていた。
■しかし、そのことは法律などが加わって現代社会となって忘れ去られていた。
■高齢者が増えて、集落全体が「加齢臭」に満ちると、嗅覚の鋭い野生動物たちは人間たちが「弱く」なってきているという空気を読み大胆な行動になってくる。
今回は、
時代への「忘れ物」といったいろんな盲点が複合されて事件がおきてしまったと考えられる。
自然界と現代社会のギャップ、野生動物たちの習性など、社会環境の一環として地域住民への啓蒙、啓発活動が必要なことを実感した。
これは、行政も地域住民も都会人も、一貫した自然観をみんなが忘れてしまっていることに起因している。
これに対して、野生動物はその時代にいちばん適合した壮健な生命だけが生きていける権利をもっているので、精神的にも行動的にも、いまのわたしたち現代人よりはるかに先を生きているという認識をもたなければならないだろう。
現代社会のなかで、「大きな忘れ物」に対する警鐘としての事件だったような気がする。
写真上: 野生動物は非常に賢く、現代社会を的確に諮って生きている。
写真下: クマのツメは剃刀のように鋭く切れるし、むき出し状態でロックもできる。


>■高齢者が増えて、集落全体が「加齢臭」に満ちると、嗅覚の鋭い野生動物たちは人間たちが「弱く」なってきているという空気を読み大胆な行動になってくる。
この視点は面白いですね
これは、かなりあり得るのではないかと思いますね
ちょっと面白そうです
それにしても
あんな集落で、犬の放し飼いができないのでは
ちょっと危険な感じがします
これからは、自己防衛という意味でも
中山間地域くらいは、放し飼いをしないと・・・
コメント by 風 — 2007/6/6 水曜日 @ 23:31:47
さすがに、風さんですね。
ここまでの話がちゃんと分かるのですからスゴイ。
まだまだ、たくさんの知見があるけれど、それはまた追々と説明いたします。
自然界を深く大きくみつめて、はじめて複眼発想ができるものです。
ツキノワグマに関しては、研究者も専門家もまったく気づいていない数々の事実もありますので、一杯でも飲みながらご説明します。
目うろこ、ですぞ。
コメント by gaku — 2007/6/8 金曜日 @ 21:36:52
クマのツメがロックできるというのは、猛禽のように掴んだ刺激で4~7秒自動ロックされるというのとは違うのでしょうか?
イヌ科のツメのように、もともと出しっぱなしというのではないのですね。
さりとてネコ科のようにリトラクタブルでも無いわけだし・・・
「武器」として意識してロックできるのなら、こいつぁすごいですね!
コメント by くまがい — 2007/9/11 火曜日 @ 15:36:15
始めまして、産婆をしております。
本当に自然なお産とは、どんなお産なのか?
そのヒントは野生動物にある!と思いそれを探る為、
野生動物写真家さんの中を渡り歩いてここに辿り着きました。
人間は<自然な感覚> を無くしてしまったか、遠い記憶の彼方に埋もれさせてしまっている、と思います。
その感覚の全く無い人が、今の人間中心の法律を作っているんだと思います。
これからは、‘自然’が本来の力を発揮して行く時代に入ったと思いますし、人間もその力を思い出して行く必要がある、と自分は思っております。
ブログも書いております。
もし宜しければ覗いて頂ければ嬉しいです。
http://osan03.exblog.jp/
コメント by 江夏素季 — 2007/10/14 日曜日 @ 14:44:51
はじめまして。
関西在住の、子供の頃サンタさんにその頃相次いで発刊され始めた動物写真
集を枕元へ積んで貰った過去のある一読者です。(サンタ自身の趣味により)
加齢臭の考察、面白いですね。「厠」から「トイレット」になって排泄臭
も集落から消えたのかしら。「犬の放し飼い」には彼らの糞も一役買っていた?肥を利用することも無くなりました。随分前に鹿の衝突事故に悩まされた鉄道会社がサファリパークからライオンの糞を貰って来て線路脇に撒いたとの記事があったような気がします。
30年前と今の、生き物としての人間の気配、野生動物によるその読み取られ
方も随分変ったのでしょうか。
コメント by sak — 2007/11/19 月曜日 @ 3:49:45
お邪魔します。
まったくのお久しぶりで、恐縮です。
早速ですが、初歩的な質問なのですが、
本日の信濃毎日新聞の記事の中に、
>「熊による皮はぎ被害が目立ち、、、、、」
>村は数年前から対策として木にビニールテープなどを巻き付けているが、
「とても間に合わない」状況だ。
と、有りました。
木に巻いてあるビニールテープは、成長、伐採の目印かと思っていました。
ビニールテープが熊避けになるとは知りませんでした。
コメント by m爺 — 2007/11/26 月曜日 @ 19:39:06
犬の放し飼いで思い出しました。和歌山の樵の知人から聞いた話ですが
その集落で半猟半樵で暮らしていた方がお亡くなりになった時
飼われていた犬をどうするか、優秀な猟犬で引き取ろうかという
人も居たようですが、なつかないそうです。近づくとうなる。
今でも空き家になった家の付近やひょんな山道で見かけることがある
けれど遠巻きにこちらを伺うか全く無関心に通り過ぎるそうです。
精悍な顔だちの紀州犬で目には警戒心がありありだそう。
自力で生きてるんですね。猟をする人にとっては常識なのかな。
仕事場を案内してもらった時、標高6~700mぐらいの尾根筋の
広葉樹に爪跡らしき四本傷があり、熊かなぁと話をしてたのだけど、
それ以外はっきりした痕跡や姿を見たことはないそうです。
コメント by sak — 2007/12/10 月曜日 @ 4:05:30
ご無沙汰しているまに、コメントありがとうございます。
◆くまがいさん、
ボクはクマに襲われたことがないので爪をどう使うかわかりませんが、石とか樹皮を剥がすので、爪は結構ロックしていると思います。
◆江夏素季さん、
ボクも産婆さんにとりあげらたそうです。ブログじっくり拝見させていただきます。
◆m爺さん、
ビニールテープがクマ避けになるかは、まだ答えがでてないと思います。
おまじないに近いものがあるかも、知れません。
◆sakさん
加齢臭に関連する話は、今後も書いていきますのでお待ちください。
和歌山の猟師の犬は、本物だと思いますよ。そして、亡くなってしまった猟師さんも。
紀伊半島にはクマが絶滅寸前だそうですが、しっかり調べればかなり生息しているのかも知れません。
コメント by 宮崎 学 — 2007/12/30 日曜日 @ 23:27:27
初めまして。さぼ~と申します。
土石流や地すべりなどの土砂災害に関わる調査の仕事をしている者です。
折に触れては貴サイトを拝読させていただいておりますが、今回初めてコメントさせて頂きます。
仕事柄渓流や沢を遡上する機会が多く、それなりにツキノワグマをはじめケモノたちとの向き合い方を常々考えながら、現地調査の度に「如何に遭遇しないか」だけを考え行動するようにはしています。
昨年夏から甲府盆地南縁の山へ入る機会が多くひとつ気になっていたことがありました。
それは、犬の放し飼いの多さでした。
普段は大阪府下の市街地で生活する私にとっては想像も出来ないことだったのですが、この事件簿を拝読してその疑問は払拭されました。
山へ入る度に人間のちっぽけさとケモノだけではなく自然界そのものに対して「怖い」というなんとも言えない気持ちになります。
山に入るということは、ある意味ツキノワグマなど彼らが生活する「庭」に無断で入らせてもらうということを忘れずにいたいと思います。
とりとめもない駄文となってしまいましたことをご容赦ください。
コメント by さぼ~ — 2008/5/17 土曜日 @ 1:45:42
◆さぼ~ さん
>「如何に遭遇しないか」だけを考え行動するようにはしています。
そうですね、このことがイチバン大切だと思います。
そうやって注意することで「殺気」というオーラが出ますから、大丈夫ですよ。
ボクなんて、いつもそういう気持ちでフィールドやってますから、なかなかツキノワグマに出会えません。
近所に居るんですが、伏せてしまって、ボクをやりすごしているんでしょうね、クマ公は。
>犬の放し飼いの多さでした。
いいところに気づきましたね。
山梨県なら、「甲斐犬」が理想的な犬ですから、たぶんそういった血を引く犬が多いと思いますよ。
ゴールデンリトルバーを放し飼いにしても、何の役にもたちませんから。
>山へ入る度に人間のちっぽけさとケモノだけではなく自然界そのものに対して「怖い」というなんとも言えない気持ちになります。
まさに、ボクとまったく同じだと思います。
ボクも、山はほんとうに「怖い」と思っています、から。
コメント by gaku — 2008/5/20 火曜日 @ 15:49:38